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トリック─劇場版2─(★★★)/最後は『富豪刑事』との競演を!

深夜枠でスタートした人気ドラマシリーズの劇場版第2弾。いつも通りのキャストが、いつも通りのストーリーで、いつも通りゆるいドラマを展開する、最後まで安心して観られる一作だ。嫌いな人は絶対に受けつけないタイプの作品。言ってみれば社会批判のないコメディ作品で、『モンティ・パイソン』が歴史や政治をネタにブラックな笑いを提供してくれるのに対し、こちらは80年代90年代に流行ったネタを笑いの対象にしている。くだらないと言えばそれまでだが、仲間由起恵や阿部寛といった(正直、演技力は期待されていなかった)キレイどころ、二枚目どころがそれをするというギャップが、笑いを誘う一因になっているのだろう。

言葉にすると、「それの何が面白いの?」と言われそうだが、仲間由起恵と片平なぎさのセルフ・パロディには笑わせられる。貧乳/巨根ネタは今度はさりげなく? 使われ、しかし強烈なインパクトを与えてくれる。

本作で完結、という話もあるが、年末あたりに是非、同じくテレ朝系の人気ドラマ『富豪刑事』と競演してもらいたい。「貧」と「富」の対立、阿部寛の女癖、深田恭子のボケに対する仲間由起恵のツッコミ。もちろんそれなりの謎解きは用意しておいて、奇術のトリックと、金に物を言わせた捜査で解明していく。うわ、それ観たいなあ。

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by taraponya | 2006-06-12 09:57 | 映画日記

映画の中で出逢う「駅」(臼井幸彦)/鉄ちゃん的考察が面白い

何かの書評で興味を持ち、「そう言えば映画に駅はつきものだなあ」と気づかされた。一読した印象はこんな感じ。

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偏見交じりですみません。

本書では主に欧米のオサレな駅を紹介、それが映画の各作品でどう描かれたか、どういう役割を果たしたのかを詳しく解説してくれる。

映画という有機質なものと、駅という無機質なものとを一緒くたに紹介できるのは、映画にも鉄道事情にも明るい著者にしかできないことだろう。ただ、駅というのは出発地であったり目的地であったり、人生における転回点の象徴として描かれるのは映画を観れば明らかなわけであり、そこに新しい発見というものはない。

面白いのはむしろ、著者の鉄ちゃん的ミクロな視点が働いている文章で、例えば『ハリー・ポッターと賢者の石』に登場するキングス・クロス駅の9と3/4番線は4番線と5番線の間で撮影したらしい、とか、『アメリ』のパリ東駅は、中は東駅だが外観は北駅を使っている、とか、そういった映画の本質とは関係ないこだわりに興味を惹かれた。『鉄道員』に関する件では、設定では終端駅なのにロケに使われた幾寅駅が通過式の中間駅であることにご不満な様子。

本書を読んでおけば、列車を使っての欧米旅行が楽しくなりそうだが、そんな余裕はいつになったら手に入れられるのやら。

映画の中で出逢う「駅」
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by taraponya | 2006-06-10 11:20 | 読書日記

戦場のアリア(★★★)/ダイアン・クルーガーはいらんでしょ

思い出した。IMDbでダイアン・クルーガーの次回作が「史実を基にした『クリスマスの奇跡』の話」という件を読んで、その史実に興味を持ったんだった。

1914年の12月、その年の夏に始まった第一次世界大戦は、早くも膠着状態に陥っていた。その理由の一つは火力が戦術を大幅に上回ったためで、無軌道・無計画・無鉄砲に前進しようものなら、塹壕に潜む敵兵からの集中射撃でやられるのがオチ。この状況を打開するために毒ガスが使われたり(後に使用禁止)、戦車が開発されたり、浸透戦術が使われるようになるのだが、それには数年待たなくてはならない。

「Home before the leaves fall」だったか、秋が来る前に戦争に勝とう、とか、クリスマスまでに戦争を終わらせよう、という熱気もすっかり冷め、前線の兵士たちの間には厭戦気分が蔓延しつつあった。開戦時の熱狂ぶりがすさまじかったから、冷めるのも早かったのか?

とまあ、こんな状況の西部戦線。クリスマスの夜、ノー・マンズ・ランド(=無人地帯。両軍とも塹壕にこもっているので、こういう空白地帯が発生する)を挟んだイギリス軍(スコットランド兵)戦線から戦場に似つかわしくないバクパイプの音色が聞こえる。これに反応したのがドイツ軍。皇帝から前線の兵士に支給されたクリスマス・ツリーを塹壕に掲げ、歌声で応戦。ならばと、その歌声に合わせてスコットランド兵も頑張ってバクパイプを演奏。両軍の塹壕から拍手喝采。ついには塹壕からドイツ兵が姿を現し、クリスマス休戦の提案がなされるのだった。

というのが、ネタでなく史実らしい。両軍兵士は自分の家族の写真を見せ合ったり、手持ちの酒やチョコレートを交換したり、タバコを交換したり、写真を撮ったり、そしてサッカーまでやったり。すっかり打ち解けちゃって、翌日も自主休戦。上官から射撃命令が出れば、空に向けて撃つ始末で、はては砲撃計画を相手に教えて自軍塹壕に敵兵を匿うなんてことも。

この経緯を面白おかしく書いた兵士たちの手紙が検閲に引っかかり、たちまち上級司令部の知るところとなる。

『戦場のアリア』は、だいたいこの通り映画化されている。極限状態にもかかわらず、あるいは極限状態だからこそ発露される人間が持つ可能性を見せつけられ、わけもなく感動してしまうのだが、冷静に考えるとこれは映画が素晴らしいのでなく史実が衝撃的なのであることに気づく。と言うのも、映画的なフィクションの部分としてダイアン・クルーガーが登場するわけだが、存在価値が希薄であり、いてもいなくても話の筋は通る。ちょっとだけ乳首を拝むことができるが、それで興行成績が伸びるとも思えないし。だからまあ、フィクションの面白さはあまり感じられない。映画作品としては凡庸と評されても仕方がないだろう。

さて、その後の兵士たちだが、フランス兵はヴェルダンに送られ、スコットランド兵の部隊は解隊、ドイツ兵は東部戦線送りになった。1918年、ドイツ軍は西部戦線で大攻勢を行い、この時は東部戦線帰りの兵士が主力となったわけだから、再び3者が戦って戦争の無常さを伝えるというオチでも良かったかも知れないなあ。

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by taraponya | 2006-06-09 12:08 | 映画日記